宗鏡寺の起源と歴史
創建と山名氏との関わり
宗鏡寺は、1392年(元中9年)、但馬国を治めていた戦国大名・山名氏清により、入佐山の麓に創建されました。開山(初代住職)は東福寺の高僧・大道似禅師。寺号は氏清の法名「宗鏡寺殿」に由来しています。この時代、山名家は全国に大きな勢力を持つ有力な守護大名であり、その菩提寺として宗鏡寺は格式ある寺院として栄えました。
荒廃と再興、沢庵和尚との縁
しかし、戦国の動乱の中で山名家が滅亡すると、宗鏡寺も長らく荒廃することになります。その後、1591年(天正19年)、出石城主となった前野長康が、大徳寺から春屋宗園の弟子・薫甫宗忠を住職として迎え、寺の再興を図りました。このとき、薫甫に弟子入りしたのが、のちに「沢庵和尚」として広く知られることになる沢庵宗彭でした。
さらに1616年(元和2年)、小出吉英が出石城主となり、沢庵和尚を再び郷里へと招いて本格的な再興を実現。宗鏡寺は、京都の名刹・大徳寺の流れをくむ中本山として、新たな歴史を歩み始めました。
「沢庵寺」としての親しまれ方
沢庵和尚は、徳川三代将軍・家光にも仕えた著名な禅僧でありながら、故郷・出石を深く愛し、生涯のうち30年以上を宗鏡寺で過ごしたと伝えられています。そのため、宗鏡寺は「沢庵寺」の愛称で呼ばれ、沢庵の人柄と精神を慕う人々によって大切に守られてきました。
沢庵和尚とたくあん漬け
一般に、「たくあん漬け」は沢庵和尚の名にちなんで名付けられたとされており、彼が漬物を考案したという説も広く知られています。宗鏡寺の周辺でも、観光客向けに「たくあん漬け」が販売されており、地域の名物として親しまれています。
出石の鬼門を護る寺
城下町を見守る風格ある山門
出石の町は、そば処としても有名な観光地で、40軒近いそば屋が軒を連ね、賑わいを見せています。そんな城下町の喧騒から少し離れた場所、入佐山の裾野に位置する宗鏡寺は、出石城の北東=鬼門の方角にあたる地に建てられました。
邪気が入りやすいとされる鬼門を護る役割を担っており、歴代の出石城主の墓所も境内に設けられています。沢庵和尚の墓もここにあり、今なお多くの参拝者が訪れています。
現住職が語る宗鏡寺の役割
現住職は、「宗鏡寺は町を護り、平和を祈祷する場である」と語ります。単なる観光地としてではなく、精神的な拠り所として町とともにある寺の姿を体感できる場所です。
四季折々の自然に囲まれた境内
心が洗われる庭園の美しさ
宗鏡寺を訪れた際は、本堂だけでなく、裏手に広がる美しい庭園「不識園(ふしきえん)」にもぜひ足を運んでください。高木と低木が織りなす陰影、苔むした緑の絨毯、そして季節ごとに変化する自然の彩りが訪れる人の心を穏やかにしてくれます。
春夏秋冬の表情
- 春:新緑がまぶしく、木漏れ日が優しく差し込みます。
- 夏:木陰に守られ、涼やかな空気が流れます。
- 秋:紅葉が朱と橙に色づき、緑とのコントラストが鮮やかです。
- 冬:一面の雪が庭を覆い、出石焼の白磁にも似た清廉な美しさを感じさせます。
本堂から中庭を静かに眺めるひとときは、日々の喧騒を離れ、自分自身と向き合う貴重な時間となることでしょう。
宗鏡寺の文化財と伽藍
指定文化財
- 本堂庭園:兵庫県指定文化財(池泉鑑賞式庭園、不識園)
江戸時代初期に沢庵が作庭したとされる池泉鑑賞式の日本庭園「不識園」は「鶴亀の庭」とも呼ばれています。本庭の「無の庭」、隣接する願成寺庭園の「心の庭」と合わせて「無心の庭」となるよう沢庵が作庭したと伝わります。 - 開山堂:豊岡市指定文化財
- 沢庵和尚自讃項相釈迦如来十六善神画像:豊岡市指定文化財
主な伽藍構成
- 山門:参道の正面に構える重厚な門。本堂の瓦を縮小したものが埋め込まれている塀が見どころ。
- 鐘楼門(夢の鐘):沢庵和尚の夢に現れた場所を掘ると鐘が見つかったという逸話から名付けられた。
- 本堂:静寂と気品を感じさせる建築。
- 書院、庫裏、対来閣:禅寺ならではの静かな佇まい。
- 開山堂、投渕軒:1968年に復元された沢庵和尚の庵。
周辺情報
宗鏡寺を訪れる際には、周辺の観光地も併せて訪れることをおすすめします。豊岡市出石伝統的建造物群保存地区や隣接する願成寺、出石史料館、明治館、石部神社など、歴史と文化に触れることができるスポットが点在しています。
交通アクセス
鉄道
山陰本線・京都丹後鉄道の豊岡駅もしくは山陰本線八鹿駅から全但バス「出石」行きで約30分、終点下車後徒歩12分。
自動車
舞鶴若狭自動車道福知山ICから国道9号・国道426号経由で約40分。
おわりに
宗鏡寺は、歴史と文化、自然、そして禅の心が調和した、心静かに自分自身と向き合える場所です。沢庵和尚の精神が今も息づくこの地で、心豊かなひとときをお過ごしください。