社名の由来
神社の名前は「さかたれ」と読みますが、これは鎮座地に由来する「坂垂れ」の意味を持つとされています。しかし、祭神が酒の神であることから、「酒樽」に掛けて「さかたる」とも称されることがあります。中近世には「大蔵(倉)大明神」とも呼ばれていた時期がありました。
祭神とその由来
酒垂神社では酒美津男命(さかみずおのみこと)と酒美津女命(さかみずめのみこと)の二柱を祭神として祀っています。これらの神々は杜氏の祖神であり、宮中の造酒司に守護神として祀られていた酒美豆男神、酒美豆女神と同一視されています。
神社の歴史と由緒
酒垂神社の創祀に関する伝説では、白鳳3年(675年)に当地を治めていた物部韓国連久々比命という郡司が、贄田(神供用の稲を穫る田)に酒造所を設け、そこで酒解子神、大解子神、子解子神の酒造三神を祀り、神酒を醸造したことが始まりとされています。この神酒を祖神に供え、五穀豊穣を祈願したとされています。しかし、この伝説は『国司文書』に基づいており、その信憑性には疑問が残ります。そのため、酒垂神社の正確な起源は不明とされています。
また、酒垂神社が鎮座する法花寺の地名から、奈良県の法華寺が連想されます。法華寺は総国分尼寺とされており、ここから但馬国の国分尼寺や国府、郡衙との関連性を指摘する説もあります。延喜の制により小社に列した(式内社)とされており、文安元年(1444年)に遷宮が斎行されたことが記録されていますが、この遷宮が他所からの遷座か否かは不明です。
明治6年(1873年)10月に酒垂神社は村社に列し、大正7年(1918年)6月15日には神饌幣帛料供進神社に指定されました。
祭祀と年中行事
酒垂神社の現行の例祭日は10月15日であり、この日には神輿が獅子舞等を供奉して御旅所まで巡幸します。かつては9月10日(旧暦)が祭日とされ、その日に榊を立てて神霊を招請し、神社で醸造された神酒を供える特殊神事が行われていました。
社殿の概要
酒垂神社の本殿は一間社流造杮葺で、覆屋によって保護されています。棟札から、永享10年(1438年)11月18日に釿始(ちょうなはじめ)が行われ、嘉吉元年(1441年)2月26日に柱立が行われ、文安元年(1444年)に遷宮が斎行されたことがわかっています。また、蟇股の裏から発見された願文の墨書から、文安5年、宝徳元年(1449年)と引き続き細部の造営が行われたことが判明しています。最終的な完成は宝徳元年頃と見られています。
本殿は小規模ですが、一間社としては大きい方で、意匠的にも大柄な木柄が特徴です。身舎の三方には高欄付きの縁(大床)が巡らされ、背面には脇障子が構えられています。正面階段の下には浜縁(浜床)が設けられ、内部は幣軸付きの板扉で内陣と外陣に区画されています。蟇股などが左右対称で、室町時代中期の古式に則った特徴を持ち、但馬地方の地方色が示されています。
これらの特徴から、酒垂神社の本殿は1958年(昭和33年)5月14日に国の重要文化財に指定されました。1913年(大正2年)に修理が施され、1969年(昭和44年)には解体修理が行われ、室町時代の建立当初の姿に復旧整備されています。
その他の建築物と摂末社
本殿覆屋は宝永の大改造の際に新設され、文政6年(1823年)に再建されました。昭和の修理に際して改築されましたが、拝殿は入母屋造瓦葺で、歴史的な価値がある建築物です。また、酒垂神社には摂末社として稲荷神社(保食命)、山神社(大山祇神)、八幡神社の三社があります。山神社は元々字山の神に鎮座していましたが、大正3年に境内に遷祀されました。
境内の特徴
酒垂神社の境内入口には鳥居があり、その足下左右には甕石があります。これらの石は、かつて酒を汲み入れる瓶を象徴しているとされています。また、かつては鳥居の西側に樹齢600年を数えた神木の杉が2本聳えていましたが、昭和59年に枯死の恐れがあるため伐採され、跡地には氏子中による「大杉追憶ノ碑」が建てられました。さらに、甕石の一方は大杉伐採の際に見つかったものとされています。
文化財としての重要性
酒垂神社の本殿は、その建築的な価値や歴史的背景から、国の重要文化財に指定されています。文化財としての保護や修復が行われ、現在もその美しい姿を保っています。
このように、酒垂神社は歴史的、文化的な価値が高く、地域の人々にとっても重要な存在であり続けています。訪れる人々は、歴史の息吹を感じながら、紅葉の美しさや神社建築の魅力を楽しむことができるでしょう。