寺院の歴史と創建
円通寺の創建は、1389年(元中6年)に遡ります。この年、但馬守護であった山名時義とその子である山名時熙が、高僧であった月菴宗光禅師を招いて、この寺を建立しました。当時の円通寺は、2院36の塔頭と14の末寺を有する大規模な寺院であり、地域の信仰の中心となっていました。
境内の特徴と見どころ
美しい日本庭園とアジサイ
円通寺の境内には、日本庭園や参道に約5千株ものアジサイが植えられています。これらのアジサイは、毎年6月下旬に見頃を迎え、その美しさを求めて多くの参拝者が訪れます。特にこの時期には『須谷あじさいまつり』が開催され、寺院全体が華やかな雰囲気に包まれます。
総門と本堂
円通寺の総門と本堂は、古き良き日本の建築美を感じさせる場所です。特に本堂は、仏教の教えが深く根付いた場所であり、参拝者はここで静かな祈りの時間を過ごすことができます。また、鐘楼も境内の一部として存在感を放ち、訪れる人々に時の流れを感じさせます。
山名時義・山名時熙の墓所
円通寺の境内には、山名時義と山名時熙の墓所があります。彼らはこの寺の創建に深く関わった人物であり、その墓所は歴史的にも重要な意味を持っています。訪れる人々は、この場所で歴史の深さを感じることでしょう。
文化財と指定
円通寺は、兵庫県指定文化財としても高く評価されています。特に、「絹本淡彩月庵宗光像」が南北朝時代の作品として評価されており、昭和46年(1971年)4月1日に指定を受けました。この文化財は、寺院の歴史と文化的価値を象徴するものであり、多くの人々がその価値を称えています。
山名時義 - 南北朝時代の武将と山名氏の当主
山名 時義(やまな ときよし)は、南北朝時代の武将であり、室町幕府における守護大名としても知られています。彼は美作国、伯耆国、但馬国、備後国の守護を務め、後に応仁の乱で有名な山名宗全(持豊)の祖父にあたります。
山名時義の生涯
略歴と生い立ち
山名時義は、正平元年/貞和2年(1346年)に山名時氏の五男として誕生しました。彼は若い頃から父に従い、中国地方を転戦していました。正平18年/貞治2年(1363年)には、父が足利直冬や南朝と結び室町幕府に反抗していた時期に、兄の氏冬と共に父の名代として上洛し、足利義詮に謁見します。その後、美作守護に任じられましたが、正平21年/貞治5年(1366年)に次兄の義理にその職を譲られることとなりました。
山名氏の当主として
建徳2年/応安4年(1371年)、父が没し長兄・師義が山名氏の惣領となった際、時義は伯耆国の守護職を引き継ぎました。そして天授元年/永和元年(1375年)には、室町幕府から侍所頭人と小侍所別当に任命されました。翌年、師義が病死すると、時義が山名氏の当主となり、但馬守護職も継承しました。しかし、時義の相続に対して甥の山名満幸や兄の氏清が不満を抱き、これが後の山名氏内部の内紛の原因となりました。
康暦の政変とその後
天授5年/康暦元年(1379年)に起こった康暦の政変により、今川了俊に代わって備後守護に任じられた時義は、その後、元中元年/至徳元年(1384年)に再び侍所頭人に再任されます。この時期、山名氏は全国66ヶ国のうち11ヶ国を領有し、「六分一殿」と称されるほどの勢力を誇っていました。
晩年と山名氏の衰退
元中6年/康応元年(1389年)、時義は44歳で死去します。彼の死後、長男の時熙が惣領と但馬国を、甥の氏之が伯耆国を継承しましたが、彼らは足利義満の命により、氏清と満幸らに追討されることとなりました。さらに、元中8年/明徳2年(1391年)に、時熙・氏之が挙兵しましたが敗北し、これにより山名氏の勢力は大きく衰退しました(明徳の乱)。時義の墓所は兵庫県豊岡市の円通寺にあり、彼と共に時熙の墓と木像が伝えられています。
山名時熙 - 山名氏の再興とその役割
山名時熙の生涯
家督相続と明徳の乱
山名 時熙(やまな ときひろ)は、南北朝時代から室町時代にかけて活躍した武将で、山名時義の長男です。父の死後、家督を相続しましたが、山名氏の惣領権を巡る争いから、明徳元年/元中7年(1390年)に氏之と共に足利義満から討伐を受け、但馬国から備後国へ逃れました。しかし、翌年には義満に赦免され、氏清らが挙兵した明徳の乱では義満の馬廻勢に加わり戦い、戦後には但馬国を拝領しました。
山名氏の勢力回復
時熙は、明徳の乱で敗れた従兄の満氏や氏利兄弟、従弟の熙高を秘かに匿いながらも、幕政に参加し、山名氏の勢力を回復しました。彼の努力により、安芸守護に満氏が、石見守護に氏利が、因幡守護に熙高が任命され、時熙の領国伯耆と合わせて7ヶ国を領有するまでになりました。山名氏の家督は時熙の家系が受け継いでいきました。
月菴宗光 - 室町時代の臨済宗僧
月菴宗光の経歴と功績
月菴宗光(げつあん そうこう)は、室町時代の臨済宗大應派の僧であり、多くの寺院を開山し、仏教界に大きな影響を与えました。1326年に美濃国で生まれ、1351年に大圓寺に帰り、その後、摂津国や伊予国で寺院を開創しました。彼の教えは禅宗の中でも「即心是仏」という考えを強調し、仏の境地に達するための実践を説きました。
晩年と遺産
月菴宗光は、元中6年/康応元年(1389年)に64歳で亡くなりました。彼の遺教は多くの禅僧に受け継がれ、その精神は現代にも息づいています。彼が創建した寺院の中には、今でも多くの参拝者が訪れる場所があります。
沢庵宗彭 - 安土桃山時代から江戸時代前期の臨済宗僧
沢庵宗彭の生涯
沢庵 宗彭(たくあん そうほう)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて活躍した臨済宗の僧であり、大徳寺の住持を務めたほか、江戸に東海寺を開山しました。彼は出羽国への流罪を経て、徳川家光の帰依を受け、禅の教えを広めると共に、政治的にも大きな影響を与えました。
晩年と遺産
沢庵宗彭は1646年に74歳で亡くなりましたが、その教えと影響は後世に大きな影響を与えました。彼の禅の教えは、多くの武士や貴族に受け入れられ、今日でもその名は広く知られています。また、沢庵漬けの考案者としても知られていますが、その真偽は定かではありません。
人物と逸話
沢庵宗彭は、その知識と教えにより、当時の日本社会で高い評価を受けました。彼の逸話や教えは、現在も多くの人々に語り継がれており、禅の世界だけでなく、文化や芸術の分野にも影響を与えています。
大石吉之進 - 赤穂浪士の一員の息子として
大石吉之進の生涯
大石 吉之進(おおいし きちのしん)は、赤穂浪士の大石良雄の次男であり、仏門に入り僧名を元快と称しました。彼は討ち入りには加わらず、19歳で豊岡の正福寺に葬られました。近年、彼の墓が市民運動によって修復されました。
交通アクセス
円通寺へのアクセスは、JR山陰本線の竹野駅から徒歩約20分で到着します。また、竹野駅から全但バスに乗車し「須谷」バス停で下車、そこから徒歩4分の距離です。
周辺の観光スポット
円通寺の周辺には、他にも豊岡市立竹野中央公園や竹野浜、猫崎などの観光スポットがあります。これらの場所は、円通寺を訪れた際に合わせて訪れることで、さらに豊かな自然や歴史を楽しむことができます。
円通寺は、その歴史的背景と美しい自然環境が融合した魅力的な寺院であり、豊岡市の観光名所の一つとして多くの人々に愛されています。