創設と発展
1847年(弘化4年)6月8日、池田草庵が自身の生誕地である宿南村に青谿書院を開きました。この私塾は、池田草庵が亡くなる1878年(明治11年)までの31年間にわたり存続し、その間、全国30カ国から611人もの門人が集いました。青谿(青渓)の名は、現在地元の青渓中学校にも受け継がれています。
書院の名前の由来
「青谿」という名前は、書院が地元を流れる青山川の谷間を臨む位置にあったことから名付けられたとされています。
青谿書院における学問の特色
青谿書院では、学力がほぼ等しい者を集めて授業が進められました。主に中国の儒学の古典が教材として使用され、『大学』、『中庸』、『論語』などが初学者向けで、学力が進んでいる者には『易経』、『詩経』、『書経』などが用いられました。特に『大学』が重視され、孔子の「徳と礼」、朱子の「仁・義・礼・知」、王陽明の「知行合一」などが教えられました。さらに、黙坐による自己反省と修養を高める工夫が行われ、最終的には劉念台の「眞独」が教えられたと伝わります。
入塾者の数
青谿書院の入塾者数は、以下のように推移しました:
- 弘化4年(1847年)~嘉永5年(1852年): 42人
- 嘉永5年(1852年)~安政4年(1857年): 46人
- 安政4年(1857年)~文久2年(1862年): 73人
- 文久2年(1862年)~慶応2年(1866年): 101人
- 慶応2年(1866年)~明治4年(1871年): 185人
- 明治4年(1871年)~明治9年(1876年): 125人
- 明治9年(1876年)~明治11年(1878年): 41人
青谿書院記
安政4年(1857年)、池田草庵は青谿書院について「青谿書院池田輯読書之處也」という書き出しで文章を記しています。
明治期における青谿書院の存続
明治5年(1872年)の学制発布により多くの家塾が廃止されましたが、青谿書院は特別に許可を得てその後も継続されました。池田草庵が亡くなる直前の明治11年(1878年)9月まで、塾は続けられました。
青谿書院資料館の設立
昭和58年(1983年)9月に青谿書院資料館が竣工しました。この資料館には展示室と談話室があり、展示室には池田草庵の自筆稿本や蔵書類が収蔵されています。
池田草庵: 但馬聖人と称えられた儒学者
池田草庵(いけだ そうあん、文化10年7月23日(1813年8月18日) - 明治11年(1878年)9月24日)は、江戸時代末期の儒学者であり、その通称は禎蔵、幼名は歌也といいます。彼はその学問と人格によって「但馬聖人」と称えられました。
幼少期の来歴
池田草庵は、但馬国養父郡宿南村(現在の兵庫県養父市八鹿町宿南)の組頭・池田孫左衛門の三男として生まれました。しかし、幼少期に母と死別するという悲劇に見舞われました。
出家と学僧時代
文政6年(1823年)、草庵は但馬の高野山と呼ばれた名刹・満福寺に入り、第53世住職・弘実(不虚)上人の弟子となりました。僧名を「弘補(こうほ)」と名乗り、字を「法雄(ほうゆう)」としました。
満福寺での学び
満福寺では、弘実上人の指導の下、『老子』、『荘子』、『韓非子』、『荀子』、『春秋左伝』、『書経』、『四書』などの儒学の古典を学びました。満福寺は空海が開いた「綜藝種智院」の教義に基づき、仏教と儒学を共に教えており、草庵もこれらの教えを受けました。
儒学への興味と寺からの出奔
草庵は次第に仏教よりも儒学に強い興味を抱くようになり、ついに天保2年(1831年)に満福寺を出奔して還俗し、京都で儒学者・相馬九方の門に入ることを決意しました。
儒学者としての名声と郷里への帰還
京都での修行を経て、次第に儒学者としての名声が高まった草庵は、郷里から地元の教育に尽力してほしいとの要請を受け、天保14年(1843年)に帰郷。最初の門人には、北垣国道や原六郎など、後に大成する人物が含まれていました。
青谿書院の創設と理念
弘化4年(1847年)、草庵は私塾「青谿書院」を開設し、弟子たちと共に共同生活を送りながら、知識と実践を兼ね備えた人間の育成に努めました。この青谿書院の理念は、草庵の深い学問への情熱と徳育に対する信念に基づいています。
池田草庵の評価と遺産
大正4年(1915年)、池田草庵には従四位が追贈され、その功績が高く評価されました。彼の遺した青谿書院とその学びの精神は、現代においてもなお、教育や文化の面で重要な影響を与え続けています。