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住吉川(兵庫県)

(すみよしがわ)

住吉川は、神戸市東部を流れる二級水系の本流です。六甲山麓から短く下る急流で、扇状地を形成し、中下流では天井川となっています。

住吉川の概要

住吉川は、急流に加えて生活排水がほとんど流入しないため、市街地にもかかわらず蛍が生息するほどの清流です。また、この清らかな水が、灘五郷における酒造の一端を担っています。住吉川沿いにはランニングコースが整備され、市民の憩いの場として親しまれています。

また、住吉川の両岸には大規模な邸宅が多く、旧住吉村の流れを受け継ぐ阪神間モダニズムの住宅地の一角を形成しています。特に、倚松庵をはじめとする歴史的建造物が点在し、地域の文化と歴史を感じることができます。

住吉川の地理

住吉川は、六甲山(標高931m)の南麓に発し、上流では六甲山主稜線側の大月断層と打越山・荒地山の稜線側にある五助橋断層(黒五谷)の間に沿って南西方向へ続く断層谷を流れます。この流れは山塊を深く侵食・分断し、五助堰堤で南へ向きを変えます。

五助橋断層の名前の由来は、現五助堰堤地点で住吉谷右岸を遡る住吉道(有馬街道)が、五助谷を越えてすぐの住吉谷を左岸側に渡る地点に設けられていた旧「五助橋」(現在は廃橋)にあります。五助谷が住吉谷に合流する直前で大きく半円状に曲がっているのは、五助橋断層の影響とされています。

住吉川は山間部を抜ける辺りで支流の西谷川を合わせ、市街地に流れ下ります。中流以降は天井川となり、東海道本線が河底の下をトンネルで抜けます。この区間から河口までは六甲ライナーが流路に沿って走っています。谷崎潤一郎の旧邸である倚松庵を西に見ながら、阪神魚崎駅を過ぎ、六甲アイランドを正面に迎えて大阪湾(東神戸港)へと注ぎます。

住吉川の歴史

住吉川と歴史の関係

住吉川は、六甲山系の中でも最も標高の高い六甲山からの水が流れるため、大きな高低差により急流となり、上流の土砂を多く下流に運び、なだらかな扇状地を形成しました。このため、江戸時代以前には住吉川流域の扇状地で古くから集落が形成されていたとされています。しかし、降雨時の集落への浸水を防ぐための堤防が築かれたことで、上流から運ばれた土砂が堆積しやすくなり、河床が上昇し、天井川化が急速に進行しました。

過去の水害とその影響

住吉川は、これまで幾度も水害を引き起こしてきました。特に、1504年の「慈明寺流れ」では西岸の大規模寺院慈明寺が流失しました。このほか、1544年、1608年、1776年、1782年、1789年、1799年、1813年、1848年、1881年、1885年、1896年、1899年、1903年、1905年、1910年、1921年、1922年、1925年、1935年にかけて水害の記録が残っています。特に1938年の阪神大水害は甚大な被害をもたらし、住吉川の氾濫が周辺地域に大きな影響を与えました。

住吉川の水害は、流域の地形や住民の生活にも大きな影響を与えました。特に、阪神大水害では、六甲山から流れてきた巨岩や巨木が阪急神戸線の住吉川橋梁に引っかかり、これが川の流れをせき止めたことで氾濫が発生しました。その後、この地域の河床や堤防が高くなり、住吉川はより高低差のある地形となりました。

近代化と住吉川の変遷

明治時代初期に国が官設鉄道線(現在の東海道本線)を敷設する際、住吉川の直下にトンネルが建設されました。これは、日本初の鉄道トンネルであり、その後の鉄道整備においても重要な役割を果たしました。

また、大正時代には阪神国道(現在の国道2号)の建設が行われ、住吉川や石屋川の底浚い工事が実施されました。この工事により、川の高さが下げられ、阪神国道線の路面電車が開通しました。しかし、住吉川の特定区間では底浚いが十分に行えなかったため、川底が段々化されることで急流化を防ぐ工夫がされました。

阪神大水害後、住吉川の河床や堤防が高くなり、阪急神戸線もこれを乗り越える形で復旧されました。この結果、住吉川は地域の交通インフラにおいても重要な位置を占めるようになりました。

住吉川の現在と未来

住吉川は、長い歴史を経て地域の発展とともに変遷を遂げてきました。現在でも、その清流は市民の憩いの場として親しまれており、住吉川沿いの住宅地は歴史的な景観を残しつつ、地域の魅力を引き立てています。今後も、住吉川は地域の自然と文化を守りながら、未来へと続いていくことでしょう。

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住吉川(兵庫県)
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