神社の由来と歴史
楠木正成と湊川の戦い
楠木正成は、1336年(延元元年 / 建武3年)の湊川の戦いにおいて、足利尊氏と戦い、殉節しました。彼の忠義と勇気は後世に語り継がれ、特に幕末には維新志士たちによって深く崇敬されました。湊川神社の起源は、1643年に尼崎藩主・青山幸利が正成の戦死の地を比定し、供養塔を建立したことに遡ります。その後、徳川光圀が1692年に「嗚呼忠臣楠子之墓」と刻まれた石碑を建て、楠木正成を理想の忠臣として尊崇しました。
神社創建への経緯
慶応3年(1867年)、尾張藩主・徳川慶勝が楠木正成を祀る神社の創設を建白し、明治元年には明治天皇の命により湊川神社の創建が決定されました。1869年(明治2年)には、現在の境内地が定められ、1872年(明治5年)5月24日に正式に湊川神社が創建されました。神社は、正成の墓所や殉節地を含む広大な境内地を持ち、現在もその姿を留めています。
神社の構造と施設
境内の主要施設
湊川神社の境内には、楠木正成にゆかりのある宝物を納めた宝物殿や能楽堂としての神能殿、そして結婚式や各種催事のための楠公会館などがあります。また、兵庫県内の神社の事務を統括する兵庫県神社庁の事務所も境内にあります。
神社の祭神
主祭神と配祀神
主祭神: 贈正一位橘朝臣(楠木)正成公
配祀神: 楠木正行卿、楠木正季卿、菊池武吉命、江田高次命、伊藤義知命、箕浦朝房命、岡田友治命、矢尾正春命、和田正隆命、神宮寺正師命、橋本正員命、冨田正武命、恵美正遠命、河原正次命、宇佐美正安命、三石行隆命、安西正光命、南江正忠命
さらに、摂社である甘南備神社には、楠木正成の夫人である滋子刀自命が祀られています。楠木正成は河内国の武将であり、後醍醐天皇に忠誠を尽くして鎌倉幕府倒幕に尽力しました。その忠義心から、正成は「大楠公」と称され、後世に渡って敬われています。
配祀神の詳細
楠木正行は、楠木正成の子息であり、「小楠公」と呼ばれます。父の死後も南朝側として戦い、四條畷の戦いで自刃しました。正行を主祭神とする四條畷神社が1890年(明治23年)に創建されました。楠木正季は楠木正成の弟であり、湊川の戦いで共に戦い自刃しました。彼の死に際しての「七生滅敵」の誓いは後世に語り継がれ、忠義の象徴とされています。
湊川神社の社名と由来
社名決定の経緯
「湊川神社」という社名は、神社が鎮座する地名「湊川」に由来しています。神社の創建時には、「大楠霊神社」や「南木神社」といった他の案も検討されましたが、最終的に「湊川神社」が選ばれました。この社名は地名を基にしており、覚えやすさが理由の一つとされています。
「大楠霊神社」案は平田派国学者・矢野玄道が提案したもので、近江国に「大楠神社」という神社が既に存在していたことから、さらに「霊」の字を追加したものです。一方、「南木神社」案は堺県知事・小河一敏が提案し、後醍醐天皇が定めたとされる社号を元にしています。しかし、最終的に政府は、地名を付けることで覚えやすく、地域に根差した神社とすることを意図し、「湊川神社」を正式名称としました。
湊川神社の歴史と影響
維新志士と南朝忠臣の崇拝
幕末において、維新志士たちは武家政権を倒し、天皇親政を実現するために南朝の忠臣を理想としました。その中でも楠木正成は特に崇敬され、多くの志士たちが彼を崇拝し、祭祀を行いました。明治維新が実現すると、楠木正成は皇室に忠義を尽くした功臣として顕彰され、湊川神社が建立されました。この神社は、近代日本における国家の象徴として重要な役割を果たし、南朝関連の人物を祀る神社創建の嚆矢となりました。
湊川神社の影響と戦後の復興
湊川神社の創建は、別格官幣社に代表される功績のあった人物を神社に祀る風習の先駆けとなりました。また、『太平記』に記された楠木正成・正季兄弟の自害の逸話に基づく「七生」は、後に「報国」の意味が加わり「七生報国」として戦時中のスローガンとなりました。戦災により社殿が焼失しましたが、戦後には復興が果たされ、現在も多くの参拝者が訪れる神社として、その役割を果たし続けています。
供養の意義と儒式の違い
供養とは故人を追悼・慰霊する行為を指しますが、これは宇宙の真理を悟った絶対的存在である仏の慈悲のもとで祀られるため、祀られる人物の有限性が強調されます。そのため、仏教式の供養は、人物を称える目的にはそぐわないといえるでしょう。
儒式の廟については、儒学者には馴染みがあったかもしれませんが、一般には馴染みが薄いものでした。このため、儒式で祀られることはなく、廟に祀るということは人間を神としてではなく、あくまで人間として祀るものでした。顕彰を行うには、神として祀られることが必要であり、そのためには神社が最も適していました。この背景には、儒学や国学が神道を支持し、仏教を排斥した明治維新の思想が大きく影響していると考えられます。
神道と国家の理想
神道と天皇を中心とする国家の実現には、古代を理想とした祭政一致の概念が含まれており、神社や神祇の祭祀は国家がそのすべてを掌握することが目指されました。近世末期には楠木正成が国家の英雄として認識され、明治において湊川神社の創建が提唱されましたが、政府はその創建をいずれの団体にも任せず、自らが主体となって建てました。これは、国家の英雄である楠木正成の祭祀を政府以外の者に行わせるわけにはいかなかったためです。
湊川神社は、天皇を中心とする新しい国家の誕生を象徴するモニュメントとなり、国家が特定の人物を顕彰することによって、その人物を国民の理想像として推奨し、その生き方を国民に示すという意図が込められていました。楠木正成の忠義を称えることで、国家に尽くす生き方を国民に勧めることが意図されており、この思想は近代以降、特に第二次世界大戦中においても大きな役割を果たしました。
湊川神社の特異性と神道における死の概念
湊川神社の特異性として注目されるのは、神社が墓を境内に含んで建てられていることです。本来、神社において死のケガレは最も忌避されるべきものとされているにもかかわらず、湊川神社では墓が境内にあり、その隣接地に神社が建てられています。これは、豊国神社や日光東照宮などの例を受け継ぐものと考えられます。
ケガレの問題は、祭神となった人物を生前から神と見なすことで回避されていると考えられます。また、近世の神葬祭の発展により、死者の祭祀に神道が関わることへの抵抗が弱まったことも影響しているでしょう。しかし、墓と神社、死者の神道祭祀がどのようにあるべきかについては、現在でも様々な見解があり、統一された解釈はありません。
楠木正成の墓碑と文化財
楠木正成の墓碑
楠木正成の墓碑は、1692年に水戸藩主徳川光圀が佐々宗淳を遣わし、183両余りの費用をかけて建てられました。「嗚呼忠臣楠子之墓」と刻まれたこの墓碑は、光圀の筆によるものです。また、裏面には明の遺臣朱舜水による散文が書かれています。この墓碑が建てられる以前には、尼崎藩主青山幸利によって五輪塔が建てられていました。
湊川神社の文化財
湊川神社には、歴史的価値のある文化財が多く保存されています。たとえば、重要文化財として段威腹巻や楠正成の真筆による紙本墨書法華経奥書があります。これらは、それぞれ1901年と1917年に国の重要文化財に指定されています。また、国指定史跡として楠木正成の墓碑があり、1951年に殉節地を含む形で指定されました。
神社に関連する宝物
湊川神社には、平櫛田中や前田青邨、横山大観、棟方志功などの著名な芸術家による作品も所蔵されています。これらの作品は、楠木正成を題材にしたものであり、湊川神社の象徴的な存在として展示されています。また、湊川神社で造られた「菊水刀」は、海軍士官向けの軍刀として特別に作られたもので、靖国神社の軍刀と同様に歴史的価値があります。
湊川神社の境内社とその歴史
摂社 甘南備神社
甘南備神社は、楠木正成の夫人滋子を祀る神社であり、1906年にその没地である河内の赤坂城から神霊を招いて創建されました。戦後、神霊は本社本殿の右側に合祀され、現在も毎月17日に月次祭、毎年9月22日に例祭が行われています。
末社 楠本稲荷大神
楠本稲荷神社は、徳川光圀が墓碑を建立する以前からこの地に鎮座していたとされ、1872年に湊川神社の境内に社殿が建立されました。祭神は倉稲魂命、猿田彦命、大宮女命であり、月次祭は毎月8日に行われています。
末社 菊水天満神社
菅原道真を祀る菊水天満神社は、1876年に創建され、1922年に正式に末社として認められました。月次祭は毎月21日に、例祭は8月25日に行われています。