神社の概要
石の宝殿
石の宝殿は、国の史跡として指定されており、横6.4m、高さ5.7m、奥行7.2mの巨大な石造物です。この石造物は水面に浮かんでいるように見えることから「浮石」とも呼ばれていますが、その起源や目的、製作方法は未だに解明されていません。
分社について
山形県にも同名の「生石神社」があり、当社の分社であると伝えられています。「生石」の読み方は本来「おうしこ」ですが、しばしば「おおしこ」や「おいしこ」と誤表記・誤読されることがあります。鳥居の扁額には「生石子神社」と記されています。
祭神
生石神社の主祭神は大穴牟遅命(おおなむじのみこと)と少毘古那命(すくなひこなのみこと)であり、大国主大神、生石子大神、粟嶋大神、高御位大神が配祀されています。
神社の歴史
社伝によれば、崇神天皇の時代に国内で疫病が流行した際、石の宝殿に鎮まる二神が崇神天皇の夢に現れ、「吾らを祀れば天下は泰平になる」と告げたことから、現在の地に生石神社が創建されたとされています。
石の宝殿の起源
『播磨国風土記』には、大国里の条に「原の南に作り石がある。家のような形をし、長さ二丈、広さ一丈五尺、高さも同様で、名前を大石と言う。伝承では、聖徳太子の時代に物部守屋が作った石とされている。」との記述があります。この記述には矛盾があるものの、石の宝殿が8世紀初期には既に存在していたと考えられます。
神社にまつわる伝承
『峯相記』によれば、天人が石で社を作ろうとしたが、夜明けまでに押し起こすことができずに帰っていったという伝承があります。また、『播州石宝殿略縁起』では、神代の昔、大穴牟遅命と少毘古那命が国土経営のために出雲からこの地に至り、石の宮殿を造営しようとしたが、夜が明けてしまい完成しなかったという物語が伝わっています。
戦国時代の出来事
1579年(天正7年)、羽柴秀吉が三木合戦の際、神吉城攻略のために生石神社を陣所として使用しようとしましたが、これを拒否されたため神社は焼き討ちに遭いました。その際、焼け残った梵鐘は持ち去られ、関ヶ原の戦いでは西軍の大谷吉継が陣鐘として使用しました。
播州の秋祭り (生石神社)
毎年10月の第3週の土・日曜日には、生石神社で秋季例祭が開催されます。この祭りでは、「よーいやさー」というかけ声とともに「やっさ」(太鼓が入った大きな神輿)が登場し、竹割りや神輿の喧嘩などが行われます。また、高砂市の「島」という地区が獅子舞を披露するなど、多彩な行事が繰り広げられます。
氏子一覧と境内の風景
氏子地区
生石神社の氏子地区には、岸、西井ノ口、島、魚橋、神爪、平津、辻があります。
境内の風景
生石神社の鳥居からは本殿へと続く参道が見え、頂上付近には拝殿が位置しています。石の宝殿は神体として崇められており、その威容は訪れる者を圧倒します。
交通アクセス
生石神社へのアクセスは、山陽本線(JR神戸線)の宝殿駅南口から徒歩約25分、またはじょうとんバス(高砂市コミュニティバス)を利用し、ふれあいの郷生石で下車後、徒歩5分となっています。神社の入り口付近には駐車場も完備されています。