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洲本城

(すもとじょう)

洲本城は、兵庫県洲本市小路谷に位置する歴史的な日本の城です。別名を三熊城(みくまじょう)といい、国の史跡に指定されています。この城は日本の戦国時代から江戸時代にかけての重要な歴史の舞台であり、現在もその遺構が残されています。

洲本城の概要

洲本城は、兵庫県の洲本市にあり、淡路国津名郡洲本に属していました。城は「三熊山」に築かれ、その立地と構造が独特で、日本の他の城とは一線を画しています。現在でも、天守台や石垣、曲輪(くるわ)、櫓跡などが残され、訪れる人々にその歴史的価値を伝えています。

洲本城の歴史と変遷

洲本城の歴史は1526年(大永6年)にさかのぼります。この年、三好氏の重臣である安宅治興が城を築きました。治興の後は養子である安宅冬康(三好長慶の弟)が城主となり、その後、冬康の死後は長男の信康、次男の清康へと城は受け継がれました。

1581年(天正9年)、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が淡路討伐を行った際、洲本城は降伏し、城は仙石秀久に与えられました。その後、1585年に秀久は讃岐国に転封され、代わって脇坂安治が城主となり、洲本城の大規模な改修を行いました。この際に、天守が造営され、石垣の大改修が行われ、「登り石垣」という珍しい防御構造が導入されました。

江戸時代と廃城

江戸時代になると、姫路城主の池田輝政の三男である池田忠雄が洲本城の領主となりましたが、忠雄が領主となった際に洲本城は廃城となり、岩屋城や由良成山城に居城が移されました。これは、徳川家康の孫を正室に迎えていた池田氏に、大坂湾や播磨灘一帯の防衛を任せるための措置でした。

由良引けとその後の洲本城

大坂夏の陣の後、洲本城は徳島藩の蜂須賀氏の所領となり、稲田氏一族が由良城代となりましたが、由良城の交通の便の悪さから、1631年から1635年にかけて、由良城を廃して洲本城に再び本拠を移しました。この移転は「由良引け(ゆらびけ)」として知られ、城下町ごと大規模な移転が行われました。

現在でも、洲本城の曲輪や池、石段、石垣、櫓跡などが良好な状態で残っており、特に天守台からの眺望は「洲本八景」に選ばれています。また、現在の模擬天守は1928年(昭和3年)に昭和天皇の即位を記念して鉄筋コンクリート製で築造されたもので、日本最古の模擬天守として知られています。

史跡としての洲本城

「由良引け」以降に築かれた洲本城は、1999年(平成11年)に国の史跡に指定されました。また、洲本城の下に位置する「下の城」も洲本市の史跡に指定されており、この地域の歴史的価値を示しています。

特に「登り石垣」という防御構造は、全国でも数例しかない珍しいもので、2017年(平成29年)には続日本100名城に選定されました(164番)。また、石垣のライトアップや周辺の樹木の伐採などの整備が進められています。

洲本城の現代における価値

洲本城の模擬天守は、2011年(平成23年)に壁面にひび割れが見つかり、修復工事が行われました。2013年には耐震補強工事が完了し、現在では展望台としての機能は失われていますが、歴史的な価値を感じることができる場所として残されています。

城郭遺構の現在とアクセス

洲本城の遺構地域は、山上と山下に分かれています。山上の洲本城跡にはかつて「天守茶屋」がありましたが、2018年に閉店し、その後、2022年に洲本市によって休憩所として整備されました。現在は「HANARE」として土日のみ営業しています。

交通アクセス

洲本城へは、高速バスの洲本バスセンター行き終点で下車し、上の城まで徒歩約60分、下の城までは徒歩約20分です。洲本バスセンターから淡路交通の由良線「由良福祉センター」行き路線バスで「公園前」で下車し、下の城まで徒歩約40分のアクセスも可能です。

周辺施設

洲本城の周辺には、洲本市立淡路文化史料館や神戸地方裁判所洲本支部、洲本警察署、洲本市立洲本第二小学校、大浜海岸、洲本温泉街などがあります。

創作・フィクションでの登場

洲本城は、小説『お登勢』や映画『北の零年』、『逆襲! 殺人拳』など、創作の舞台としても登場しています。歴史と現代が交差するこの地は、多くの作品にインスピレーションを与えてきました。

Information

名称
洲本城
(すもとじょう)

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