小浜宿の地理と歴史
沿革
小浜は、伊丹台地の西端に位置し、かつては瀬戸内海が深く入り込んでいたため、浜が存在していました。平安時代にはこの地域が陸化し、9世紀には国府が置かれ、総社・売布神社が創設されました。15世紀末になると、覚如の末裔である一向宗(浄土真宗)の善秀がこの地に小浜荘を開き、毫摂寺を建立しました。
毫摂寺は、周囲三方を大堀川が迂回する地形を利用して城塞化され、一向宗勢力の拠点として機能しました。この地域は、戦国時代には織田信長による一向一揆弾圧に備えた重要な場所でありました。また、織田信長が荒木村重を伊丹城に攻めた際(有岡城の戦い)、小浜は信長方に付いて難を逃れることができました。
江戸時代の小浜宿
江戸時代になると、小浜は有馬街道の要衝としての地位を確立し、豊臣秀吉やその甥秀次も有馬湯治の際にこの地を訪れました。しかし、秀次が毫摂寺の娘を側室にしたことで、秀次が失脚した際に小浜は焼き打ちに遭ってしまいました。その後の復興により、小浜宿は江戸幕府からも重要視され、宿場町として発展していきました。
この頃、小浜宿には脇本陣や旅篭、木賃宿、商家、馬借が林立し、商業活動が盛んでした。また、名水「玉の井」を使用した酒造業「小浜流」も発達し、摂津国鴻池村で酒造業を営んでいた山中清直が、小浜宿で酒造業を営んだことから、小浜の酒は全国に広まりました。しかし、18世紀以降、酒造業は灘五郷に譲渡され、次第に小浜の酒造業は衰退していきました。
城塞寺内町としての小浜
寺内町としての防御性
小浜は、南西北の三方を迂回する大堀川と、東側に掘られた溜池によって防御性を高めた城塞寺内町として発展しました。街道ごとに門が設けられ、東門は京伏見街道、北門は有馬街道、南門は西宮街道に通じていました。南北750m、東西400mの規模を持つ総構えの町であり、小浜城とも呼ばれる防御拠点でした。
小浜宿の旧街道
主要な街道
小浜宿には以下のような主要な街道が通っていました:
- 有馬街道: 大阪 - 伊丹 - 小浜 - 生瀬 - 有馬
- 京伏見街道: 京・伏見 - 山崎 - 郡山 - 瀬川 - 加茂 - 口谷 - 小浜
- 西宮街道(馬街道): 西宮 - 伊孑志 - 小浜
小浜宿の旧跡・名所
毫摂寺
「小浜御坊」として知られる毫摂寺は、小浜宿の中核的な寺院であり、歴史的な重要性を持っています。
宝塚市立小浜宿資料館
名水「玉の井」が残る旧山中家住宅は、1995年の阪神淡路大震災で半壊しましたが、1999年に資料館として復旧され、現在では小浜宿の歴史を学ぶ場となっています。
玉の井
古来より水の澄んだ井戸は「玉の井」と呼ばれていました。1589年、豊臣秀吉が有馬温泉に向かう途中、千利休と共に小浜宿で休息し、この井戸の水で茶をたてさせたと伝えられています。その際、この井戸を「玉の井」と題したことが由来となっています。
井川家住宅
江戸時代初期から残る「菊仁」の造酒屋である井川家住宅は、小浜宿の歴史的建造物として知られています。
小浜皇大神社
小浜の産土神である小浜皇大神社は、2006年に本殿が兵庫県登録有形文化財の第一号として登録されました。祭事としてだんじり祭や小浜戎が行われています。
いわし坂と和田家住宅
いわし坂は、北門を有馬街道へ出た道であり、現在は国府橋が架かっています。この場所は、かつて瀬戸内海の浜であった時代に、鰯を荷揚げしたと伝えられています。また、いわし坂の北には宝塚市最古の住宅である和田家住宅があり、宝塚市指定文化財として保護されています。
首地蔵
南門を西宮街道へ出た道には「首地蔵」があり、その由来には諸説あります。1975年には新しい首地蔵も安置され、現在もその存在が続いています。
小浜宿まつり
小浜宿では、毎年4月の第一土曜日と日曜日に「小浜宿まつり」が開催され、地元の歴史と文化が再現され、多くの観光客を魅了しています。