沿革
元和3年(1617年)、戸田氏鉄(うじかね)が5万石で入封し、尼崎城を築城しました。この城は、3重の堀を持ち、本丸には2重の付櫓を2棟付属させた複合式の四重天守と3棟の三重櫓が建てられた壮大な構造を誇っていました。
築城から廃城までの間、尼崎城の城主は3つの家系で12代に渡り交代しました。戸田氏の後には青山氏が4代続き、正徳元年(1711年)には桜井松平家の松平忠喬(ただたか)が4万6千石で入城し、その後桜井松平家による支配が7代続いて幕末を迎えました。最後の藩主は松平忠興でした。
火災と再建
弘化3年(1846年)1月28日、本丸の女中部屋付近から出火し、本丸御殿が全焼しました。しかし、領民の協力もあり再建は迅速に行われ、その年の7月には着工、翌年1月28日には上棟式が行われ、6月28日に完成しました。
廃城令と移築
明治6年(1873年)の廃城令により、尼崎城の建物は一部を除き取り壊されましたが、明治7年(1874年)には本丸御殿の一部である「金之間」が菩提寺・深正院に移築されました。しかし、この本堂も戦前に戦災で焼失しています。「金之間」は、「牡丹之間」と「菊之間」を合わせた名称であり、全て金箔張りであったことからその名が付けられた高格式の来客専用貴賓室でした。
現在の状況
現在、尼崎城の本丸跡地は尼崎市立明城小学校の敷地として利用されており、その他の曲輪や埋め立てられた内外の堀跡も市関連施設や宅地などに転用されています。しかし、西三之丸の北半分は尼崎城址公園として整備されており、石垣や土塀が模擬復元されています。また、平成30年(2018年)には資産家の寄贈により外観復元天守が完成しました。
縄張りと構造
城郭の配置
尼崎城は大物川と庄下川が大阪湾に注ぐデルタ地帯に築かれ、城郭全体はほぼ正方形の形状を持ち、四重の天守や三重櫓、本丸御殿などが配置されていました。周囲には二之丸、松之丸、南浜、西三之丸などが配置され、これらを取り囲む形で城下町が形成されました。
本丸
本丸は尼崎城の中心に位置し、藩の政務を司る重要な場所でした。天守は本丸の北東隅に位置し、四重の構造を持ち、唐破風や切妻破風が特徴的でした。また、他の3隅には三重櫓が建てられ、大手方面には多聞櫓が配置されていました。
天守と隅櫓
天守は複合式層塔型で、四重四階の構造を持ち、白漆喰で仕上げられていました。隅櫓は天守以下の4隅に建てられ、いずれも3重で唐破風や切妻破風が付けられていました。
外観復元天守の建設
家電量販店の創業者である安保詮氏は、創業の地に恩返しをしたいという思いから、10億円以上の私財を投じて尼崎城の天守を再建しました。再建された天守は、尼崎市に寄贈され、2018年に尼崎城址公園内に完成しました。
尼崎城の遺構と遺物
尼崎城の廃城後、多くの建物は取り壊されましたが、尼崎市教育委員会は20回以上の発掘調査を実施し、様々な遺構や遺物が発見されています。現在、これらの調査報告書は尼崎市立地域研究史料館で閲覧可能であり、出土した遺物は尼崎市立歴史博物館で展示されています。
また、尼崎城址公園内の石垣には、当時の石材を再利用したものが含まれており、矢穴石と呼ばれる石切の跡が残る石を見ることができます。
まとめ
尼崎城は、歴史的な背景と共に、現在もその遺構や再建された天守が地域の文化遺産として大切にされています。発掘調査や資料館での展示を通じて、尼崎城の歴史を後世に伝える取り組みが続けられています。