廣田神社の創建と由来
廣田神社の創建は、『日本書紀』に記されています。神功皇后が三韓征伐に出発する際、天照大神の神託を受け、荒魂が皇后の軍を導く役割を果たしました。帰途、難波の港に向かう途中で船が進まなくなり、天照大神の荒魂を広田国に祀るべきとの神意が示されました。これが廣田神社の創建の由来です。この時、廣田神社とともに生田神社、長田神社、住吉大社も設立され、それぞれの神が祀られました。
朝廷との関わりと社殿の変遷
廣田神社は朝廷からも篤く崇敬され、貞観10年(868年)には従一位に叙せられました。平安時代には二十二社の一社とされ、度々奉幣勅使が派遣されました。また、神祇伯白川家との関係が深まり、和歌の神としても信仰を集めるようになりました。元暦元年(1184年)には、源頼朝が平氏討伐を祈願し、淡路国・広田荘を寄進しています。
当初、廣田神社は甲山山麓に鎮座していましたが、幾度かの遷座を経て、現在の廣田山に落ち着きました。しかし、1945年の西宮空襲で社殿が焼失し、戦後に現在の位置に移転しました。1963年に伊勢神宮荒祭宮の旧社殿を譲り受けて再建されましたが、1981年に再び火災で失われ、1984年に現在の本殿が完成しました。
廣田神社と西宮市の関係
廣田神社は京から西国方向を目指す街道上に位置しており、その影響から「西宮」とも呼ばれていました。この「西宮」という名称は、後に廣田神社の神郷一帯を指すようになり、現在の西宮市の由来となりました。西宮神社もかつては廣田神社の摂社であり、その名残が現在の西宮市に残っています。
境内の構成と文化財
廣田神社の境内は広大で、さまざまな施設や摂末社が存在します。本殿は1984年に再建され、第一脇殿には住吉大神、第二脇殿には八幡大神が祀られています。さらに、第三脇殿には武御名方大神、第四脇殿には高皇産霊神が祀られています。
境内には、摂社や末社が数多く点在しており、齋殿神社や伊和志豆神社などが有名です。特に伊和志豆神社は、式内大社としても知られており、その歴史的価値は非常に高いものです。また、境外社には名次神社や岡田神社があり、それぞれが独自の歴史と文化を持っています。
廣田神社の境内には、兵庫県指定天然記念物であるコバノミツバツツジ群落が広がっており、春になると美しい花が咲き乱れ、訪れる人々を魅了します。
西宮神社と廣田神社の関係
西宮神社(西宮戎)は、かつて廣田神社の摂社であり、浜南宮と呼ばれていました。現在もその名残が南宮神社として西宮神社の境内に残されています。廣田神社と西宮神社の歴史的なつながりは非常に深く、地域の信仰と文化に大きな影響を与えてきました。
祭事と信仰
廣田神社では、年間を通じてさまざまな祭事が行われています。特に、天照大神の荒魂を祀る祭事は重要な位置を占めており、多くの参拝者が訪れます。また、境内に祀られている各神々への信仰も厚く、地域の人々にとって重要な神社となっています。
廣田神社は、古くから和歌の神としても信仰されており、境内では何度も歌合せが行われてきました。このような文化的な側面も、廣田神社の魅力の一つとなっています。
まとめ
廣田神社は、その壮大な歴史と文化的価値から、兵庫県西宮市を代表する神社の一つです。天照大神の荒魂を主祭神とし、朝廷や武将たちからの篤い崇敬を受けてきました。現在も多くの人々に信仰され、年間を通じてさまざまな祭事が行われています。また、境内には多くの摂社や末社が点在し、文化財としても高い評価を受けています。廣田神社は、西宮市の歴史とともに歩んできた重要な存在であり、訪れる人々に深い感動を与える場所です。