円通寺の歴史
創建とその由来
円通寺の創建は、永徳2年(1382年)の正月に遡ります。当時、室町幕府第3代将軍であった足利義満が、後円融天皇の勅命を受けて開基となり、足利尊氏の第四子である英仲芳俊を開山として設立されました。「永谷山」という山号は、年号の首字である「永」に由来し、寺号の「円通寺」は、天皇の宝号である「円」から名付けられました。その後、円通寺は勅願所(勅願寺)として定められました。
如意輪観音像の由来
本尊である如意輪観音像は、後小松天皇が自ら南北朝合体を祈願し、一刀三礼で彫り上げたものであると伝えられ、当寺に下賜されたとされています。また、第2世には関白近衛道嗣の第三子である牧翁性欽を迎え、当寺は朝廷と幕府の両方に通じる重要な寺院となりました。
戦国時代の困難
戦国時代に入ると、円通寺は一時的に衰退しました。織田信長の命を受けた明智光秀が丹波国に侵攻した際、当寺も危機に瀕しましたが、地元の国人である荻野喜右衛門が光秀の本陣に赴き、円通寺への攻撃を取り止めるように必死に説得しました。その結果、光秀はこれを受け入れ、当寺は戦火を免れることができました。このエピソードは寺伝に記されています。
江戸時代の中興とその後
江戸時代に入ると、円通寺は再び中興され、江戸幕府から朱印状が与えられ、触頭の役割を担うようになりました。本堂や庫裏は天保11年(1840年)に一度焼失しましたが、その後再建されました。この時期、円通寺は200を超える末寺と一千石を超える寺領を有し、丹波国、但馬国、播磨国、摂津国に広がる影響力を誇りました。しかし、明治時代になると廃仏毀釈の影響で荒廃しました。その後、第40世の日置黙仙禅師が住持となり、円通寺を復興しました。後に、日置黙仙禅師は曹洞宗大本山永平寺の管長としても活躍しました。
円通寺の境内
施無畏殿 - 本堂
施無畏殿は、天保11年(1840年)に焼失後、再建された本堂です。軒下には、中井権次一統による多くの彫刻が施されています。この建物は、木造建築としては当地域で最大規模を誇るものです。
庫裏
庫裏もまた、天保11年(1840年)に焼失後、再建されました。当地方最大の規模を持つ庫裏であり、その存在感は際立っています。
躍然遠挙の碑
躍然遠挙の碑は、山岡鉄舟の筆による碑銘が彫られています。
三如来堂
三如来堂は、元々大師堂として使用されていましたが、香良の三如来寺が廃寺になった際、そこで祀られていた釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来の三如来像を当寺に移し安置されています。
明治忠魂碑
明治忠魂碑には、山縣有朋の筆による碑銘が刻まれています。
鐘楼
鐘楼は、境内に位置し、静寂の中でその存在感を示しています。
放生池
放生池は、かつて源融が建立した賀茂大明神社がありましたが、円通寺建立の際に賀茂神社(町内賀茂)と神野神社(町内北御油)に分けて祀られるようになりました。
山門
山門は、門の左右に別棟を設け、仁王像を祀っています。このことから、「仁王門」とも呼ばれています。
指月庵
指月庵は、境内の一角に静かに佇む建物です。
永代供養塔
永代供養塔は、2017年(平成29年)5月に完成しました。
清水地蔵
清水地蔵は、境内にある静かな祠で、訪れる人々の心を落ち着かせます。
円通寺の文化財
丹波市指定有形文化財
円通寺は、多くの文化財を有しています。以下はその一部です。
- 絹本著色釈迦十六善神像 1幅
- 絹本墨画地蔵瀧山水図 3幅
- 絹本墨画龍図 1幅
- 正法眼蔵(写本) 24冊
丹波市指定天然記念物
円通寺の境内には、以下のような天然記念物も存在します。
- 大スギ
- タブノキ
- イトザクラ