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興禅寺

(こうぜんじ)

興禅寺は、兵庫県丹波市に位置する歴史ある仏教寺院です。山号は大梅山で、曹洞宗の別格地として知られています。本尊は釈迦如来で、これは仏師・春日によって制作されたとされています。興禅寺は国の史跡に指定されており、また春日局の生誕地としても広く知られています。

概要

興禅寺の所在地は、戦国時代の山城であった黒井城の下館(しもやかた)に位置しています。この寺院は、明智光秀による丹波制圧後に、彼の家臣である斎藤利三が居住した館の跡地に創建されました。現在でも、楼門前には水を湛えた七間堀や高い石垣、白ねり塀が残されており、戦国時代の城砦の姿を今に伝えています。このように、興禅寺と山上に位置する黒井城は、「黒井城跡」として国の史跡に指定されています。

興禅寺の沿革

興禅寺の前身は「杖林山誓願寺」という寺院で、現在の位置から約150メートル下った場所にありました。かつてこの場所には、八木城主・内藤宗勝が黒井城を攻城した際、戦火によって誓願寺も焼失してしまいました。当時、誓願寺が位置していた場所は「寺屋敷」と呼ばれ、9つの寺が立ち並び、黒井城の寺町を形成していました。焼失した寺の再建に尽力したのは、黒井城主の荻野直正(別名・赤井直正)であり、堂宇の建立などによって寺院の再建が進められました。

現在の場所に移転したのは、黒井城の落城から50年後の寛永3年(1626年)のことです。移転先の下館跡に本堂などを移し、山号を「杖林山」から「大梅山」に変更しました。また、宗派も真言宗から曹洞宗へと改められ、寺号も「誓願寺」から「興禅寺」へと変更されました。これらの変遷により、興禅寺は荻野直正によって開基されたと伝えられています。

興禅寺の高石垣と水濠は、当時の下館の遺構をそのまま利用している可能性が高いとされています。この石垣と水濠は、興禅寺が戦国時代の山城の遺構を受け継いでいることを示しており、その歴史的価値は非常に高いものです。

斎藤利三と春日局の生誕地

興禅寺が位置する黒井城跡は、明智光秀によって落城させられた後、斎藤利三が居住していた場所です。天正7年(1579年)から天正9年(1581年)の3年間、斎藤利三は亀山城と往来しながらこの地を治めていたとされています。その天正7年に、斎藤利三の娘であるお福がこの地で生まれました。お福は、後に徳川家光の乳母となり、大奥の礎を築いたことで知られる春日局です。

『稲葉家・御家系典』には、「春日局を御乳母となし、局頭と称して春日局と号す。これすなわち、丹波国氷川郡春日井庄の生所をもってこの名をなすという」と記載されており、このことからも、興禅寺が春日局の生誕地であると推定されています。

境内の見どころ

高石垣と水濠

興禅寺の境内には、約80メートルにわたる水濠があり、「七間堀」と呼ばれています。石垣の高さは約5メートルで、黒井城と同様の「野面積み」の手法が用いられています。部分的には切込みハギが使用されており、これは後世に修復が行われた証とされています。

楼門

興禅寺の楼門は、宮津市にある智源寺から移築されたもので、創建年代は不明ですが、元禄年間に改修された記録が残っています。歴史的な建造物として、訪れる人々にその威厳を感じさせます。

鐘楼

興禅寺の鐘楼は、赤井直正の子である直義が、先祖供養のために建立したものとされています。現在の鐘楼は、大正2年(1913年)に改築されたものです。

お福腰かけ石

興禅寺の境内には、「お福腰かけ石」と呼ばれる石があり、これはお福が幼少の頃に腰をかけて遊んだと伝えられています。

お福産湯の井戸

境内にはもう一つ、「お福産湯の井戸」と呼ばれる井戸があり、深さは1.7メートルです。これはお福が初湯に使用したと伝えられる井戸で、歴史的な価値が高いものです。

交通アクセス

電車でのアクセス

興禅寺へは、JR福知山線の黒井駅から徒歩約10分でアクセス可能です。

車でのアクセス

車の場合、舞鶴若狭自動車道の春日ICから国道175号を経由して興禅寺に向かうことができます。

Information

名称
興禅寺
(こうぜんじ)

丹波篠山

兵庫県