城の概要と立地
黒井城は、丹波市春日町黒井地域の北部にそびえる城山(標高356m)に築かれています。猪ノ口山の三方にわたる尾根伝いに曲輪群が配置され、全山が要塞化された構造になっています。この城は、建武年間に赤松貞範によって築かれたとされていますが、戦国時代には赤井直正の居城としても知られています。
天正7年(1579年)、赤井直義の時代に、明智光秀の攻撃を受けて落城。その後、斎藤利三が城主となり、現在の規模にまで改修されました。山崎の戦いの後には、堀尾吉晴が城主となりましたが、関ヶ原の戦いの後、川勝秀氏が城主となり、最終的には廃城となりました。黒井城は約250年間存続しました。
国の史跡と続日本100名城
1989年(平成元年)8月11日、黒井城は国指定文化財(史跡)として指定されました。その後、2017年(平成29年)4月6日には、続日本100名城の163番として選定され、さらなる注目を集めています。
黒井城の歴史
赤松時代の黒井城
『嘉吉記』によると、足利尊氏に従軍し、新田義貞軍と戦った功績により、建武2年(1335年)12月12日に丹波国春日部を赤松貞範が所領としたことが始まりだとされています。この時に築城が始まったと考えられていますが、猪ノ口山に築城されていなかったという異論も存在します。
その理由として、戦闘が終息する時期に築城するのはおかしいとされています。しかし、その後赤松氏は五代にわたり、約120年間この地を統治していたようです。とはいえ、赤松氏が春日部領を直接統治していたわけではなく、代官を配置して遠隔統治していたのではないかと考えられています。
荻野・赤井時代の黒井城
その後、赤松氏に代わって荻野氏が春日部領を次第に治めていったと考えられています。大永6年(1526年)11月には、黒井城の城主である赤井五郎が兵3000を率いて神尾山城の包囲軍を背後から襲撃した記録が残っていますが、この赤井五郎が後に黒井城で活躍する赤井直正一族とどのような関係があるのかは不明です。
その後、天文年間(1532年-1554年)には、荻野秋清が黒井城主となり、赤井氏は氷上町の後屋城を拠点としていました。赤井直正は荻野秋清に質子として送られ、その後黒井城を乗っ取ることになります。
赤井直正の黒井城奪取
赤井直正は、荻野秋清への年初の挨拶のために黒井城に向かいましたが、その際に荻野秋清を暗殺し、黒井城を奪取しました。この事件の背景や原因については、さまざまな説がありますが、正確な理由は不明です。しかし、『赤井時家書状』によれば、赤井直正が再び朝日城に預けられたことが確認されています。
その後、赤井直正は「悪右衛門直正」と名乗り、黒井城を拠点に戦国武将としての道を歩み始めました。彼は細川晴元派として活動し、晴元の没後も三好氏との戦いを続けました。永禄7年(1564年)には、多紀郡へ侵攻し、永禄8年(1565年)には三好氏方の松永久秀の弟、松永長頼を討ち取り、丹波国から反晴元勢力を一掃しました。
第一次黒井城の戦い
永禄13年(1570年)3月、赤井直正と赤井忠家は織田信長に拝謁し、丹波奥三郡を安堵されました。しかし、山名祐豊が氷上郡にあった山垣城を攻撃すると、赤井直正と忠家は即応し、山名軍を撃退しました。その勢いで、但馬国の竹田城を攻め取り、山名祐豊の本拠地である此隅山城にも迫りました。
その後、織田信長は明智光秀を総大将に丹波国征討戦を開始し、黒井城を包囲しました。攻城戦は2ヵ月以上続きましたが、波多野秀治軍が明智光秀軍の背後を突いて退却させました。この戦術は「赤井の呼び込み戦法」として知られています。
第二次黒井城の戦い
その後、赤井直正や弟の赤井幸家は吉川元春に援軍を要請しましたが、援軍は到着せず、明智光秀は第二次丹波国征討戦を開始しました。緊迫した状況の中、赤井直正が病死し、赤井直義が後を継ぎましたが、明智光秀軍に対抗することができず、黒井城は孤立無援となり、最終的に落城しました。
黒井城の城郭と遺構
城郭の構造
黒井城の城郭は、猪ノ口山の山頂部に位置し、本丸、二の丸、三の丸と呼ばれる曲輪があります。主曲輪の配置や石垣の組み方から、近世風の城郭であると指摘されています。
本丸と石垣
本丸は南面と二の丸方向に石垣で固められており、他は土塁で守られています。石垣は土塁の上に築かれており、鉢巻石垣と同じ構造を持っています。天守の礎石と思われる石の配列があり、天守台の祖型が推察されています。
二の丸と瓦の遺物
黒井城の二の丸は、本丸に隣接して配置されており、戦国時代における重要な防衛拠点の一つでした。二の丸の広さは、約35メートル×20メートルと広く、ここにはかつて多くの建造物が存在していたとされています。特に注目すべきは、ここで発見された瓦の遺物です。これらの瓦は、当時の城郭建築において使用されていたもので、戦国時代における建築技術の高さを物語っています。瓦には、当時の職人の手による精巧な模様が施されており、当時の美的感覚や建築文化を今に伝えています。
発見された瓦の一部には、焼き物特有の美しい色合いや形状が残っており、これらが城の威厳や格式を象徴していたことがうかがえます。また、二の丸周辺から出土したその他の遺物も、当時の生活や戦いの様子を知る手がかりとして重要です。これらの遺物は、丹波市の文化財として保存され、現在は市内の博物館などで展示されることもあります。訪れる人々は、これらの遺物を通じて、戦国時代の黒井城の姿をよりリアルに感じることができるでしょう。
三の丸とその他の曲輪
黒井城の三の丸は、二の丸に接する形で配置されており、広さは28メートル×23メートルです。ここからは、戦国時代に使用されていた瓦の一部が発見されており、城内の建造物がどのようなものであったかをうかがい知ることができます。また、三の丸は南側が急な斜面になっているため、防御の要としての役割を果たしていたと考えられています。周辺にはその他にも複数の小曲輪が配置されており、これらが城全体の防御力を高めるための工夫として配置されていました。
城跡の現在
黒井城跡は、1989年(平成元年)8月11日に国の史跡に指定されました。また、2017年(平成29年)には「続日本100名城」に選定され、訪れる観光客の関心を集めています。城跡は、猪ノ口山の山頂部に広がっており、かつての本丸、二の丸、三の丸といった曲輪群が残され、当時の面影を今に伝えています。登山口には「国指定史跡 黒井城跡」の記念石碑が建てられており、ここからは城跡への登山が開始されます。
登山の魅力
黒井城跡への登山は、四季折々の自然を感じながら歴史を体感できる貴重な機会です。春には桜が咲き誇り、夏には緑豊かな木々が涼しげな影を落とします。秋には紅葉が美しく染まり、冬には澄みきった空気の中で遠くの山々を見渡すことができます。また、山頂からは丹波市の街並みや周辺の山々を一望でき、その絶景は訪れる者を魅了します。歴史と自然が織りなすこの場所は、多くの登山愛好家や歴史ファンに愛されています。
保護と保存の取り組み
黒井城跡は、丹波市と地元の保存会が協力して保護活動を行っています。城跡の周辺は自然が豊かで、貴重な動植物が生息しているため、環境保護の観点からも慎重に管理されています。また、城跡の整備や観光資源としての活用にも力を入れており、訪れる人々に歴史を学ぶ場として提供されています。定期的に行われる清掃活動やガイドツアーなども実施され、城跡を訪れる人々にとって安全で快適な環境が整えられています。
黒井城の歴史的意義
黒井城は、その長い歴史の中で多くの戦いを見守り、時代の移り変わりを象徴する存在です。戦国時代には、赤井直正をはじめとする戦国武将たちがこの城を拠点に活躍し、明智光秀との戦いなど歴史的な出来事が数多く繰り広げられました。これらの戦いを通じて、黒井城は丹波地方における重要な拠点としての役割を果たし、その存在は今日まで語り継がれています。
地域文化への影響
黒井城は、地域文化にも深く根付いています。城跡周辺の地域では、黒井城にまつわる伝承や祭りが今も続けられており、地元の人々にとって大切な歴史的遺産となっています。また、城跡を訪れる観光客が地域の活性化にも寄与しており、観光と歴史が結びついた地域振興の一環として、黒井城は大きな役割を果たしています。
まとめ
黒井城は、丹波地方における戦国時代の歴史を物語る貴重な遺構です。その険しい山の上に築かれた城は、当時の戦国武将たちの戦略と工夫が詰まったものであり、訪れる者にその壮大さを感じさせます。今日では、国の史跡として保護され、多くの人々がその歴史に触れる場となっています。黒井城跡を訪れることで、戦国時代の歴史や文化をより深く理解し、丹波の自然と歴史を堪能することができるでしょう。