兵庫県 » 丹波篠山

弘浪山 高山寺

(こうろうさん こうさんじ)

高山寺は、兵庫県丹波市氷上町に位置する、真言宗大覚寺派の別格本山の寺院です。長い歴史を持ち、古くから地域の信仰を集めてきました。高山寺はその名の通り、高山の中腹に位置しており、自然豊かな環境の中で多くの参拝者を迎えています。

寺史

創建と伝承

高山寺の起源は、690年代末頃、法道仙人によって始まりました。伝承によれば、法道仙人が丹波市氷上町の奥にある山中の宿堂において、春日大明神、地蔵権現、八幡宮、天神、弁財天を勧請し、千日行法を行っていたとされています。その後、観音菩薩の霊夢を受け、弘浪山に登り、岩窟の霊地を発見した法道仙人は、十一面観音を彫り、天平宝字5年(761年)に弘浪山山頂に一宇を建立し、寺の開基を成しました。

中世から近世の変遷

高山寺はその後、仁平3年(1153年)に兵火により堂宇を焼失し、荒廃しました。しかし、文治5年(1189年)には、源頼朝の命を受けた重源聖人によって中興され、七堂伽藍が整備されました。また、寺には10の末寺が建立され、その後、後鳥羽天皇の勅願所となりました。

しかし、南北朝時代以降、萩野氏などにより高山寺は寺院城郭(高山寺城)にされ、相次ぐ戦乱で再び荒廃しました。永正6年(1509年)、赤井伊賀守によって復興されましたが、再び兵火により堂宇はほとんど焼失しました。

豊臣秀吉と高山寺の梵鐘

豊臣秀吉が大砲鋳造のため、丹波国氷上郡内の梵鐘を集めた際、高山寺の梵鐘も柏原東奥藤ノ目に運ばれました。しかし、柏原八幡宮の社僧がその梵鐘を特に優れたものと評価し、秀吉に願い出て柏原八幡宮に寄進されたため、柏原八幡宮の梵鐘には「高山寺」の銘が残されています。

近世から現代までの再興

慶長5年(1600年)、日向国の僧・開長によって再興された高山寺は、葛野庄18ケ村の総社である内尾神社の別当寺となり、多くの山林や田地を所有し、再び繁栄しました。延宝6年(1678年)に作成された高山寺の絵図には、広大な境内の記録が残されており、当時の繁栄を物語っています。

しかし、明治維新後の神仏分離令や1934年(昭和9年)の室戸台風、さらには太平洋戦争の戦乱によって、堂宇の復興が叶わず、山上での維持が困難となりました。そこで1958年(昭和33年)、本堂、山門、庫裏を現在地に移築し、現在に至っています。

境内の見どころ

山門(仁王門)

高山寺の山門は、解体移築の際に「正徳四年(1714年)律伝上人請願」と記された棟木が発見されました。建立は亨保5年(1720年)と伝えられています。この山門をくぐると、参道が紅葉のトンネルのように広がり、秋には美しい景観を楽しむことができます。

本堂

本堂は亨保14年(1729年)に建立されたもので、古い歴史を感じさせる建物です。参道両脇を彩るイロハモミジが、訪れる人々を魅了します。また、本堂には頼朝の将軍就任を予言したとされるご本尊が祀られており、開運出世のご利益があるとされています。

庫裏と手切り地蔵菩薩

庫裏は、高山寺の歴史と日常の務めを支える重要な建物です。また、境内には手切り地蔵菩薩をはじめとする多数の仏像が祀られており、参拝者の心を癒します。

四国八十八ヵ所の石仏と安産大師

境内には、四国八十八ヵ所本尊を模した石仏や、安産大師などの仏様が祀られています。これらの仏像は、多くの参拝者に信仰され、日々多くの人々が訪れています。

高山寺の魅力と信仰

高山寺は、その長い歴史と豊かな文化遺産を通じて、地域の人々や訪問者に愛されています。特に、秋の紅葉や参道からの景観は見事で、参拝者を魅了します。また、四国八十八ヵ所を模した石仏群や、頼朝の将軍就任を予言したとされるご本尊など、多くの見どころがあり、信仰の場としても重要な役割を果たしています。

ぜひ一度、高山寺を訪れて、その歴史と自然の美しさに触れてみてください。

Information

名称
弘浪山 高山寺
(こうろうさん こうさんじ)

丹波篠山

兵庫県