石龕寺の歴史
創建と聖徳太子の伝説
石龕寺の歴史は古く、寺伝によれば、用明天皇2年(587年)にまで遡ります。聖徳太子が蘇我馬子と共に物部守屋と戦った際、太子は自ら毘沙門天像を刻み、それを兜の真甲に頂きました。戦に勝利した後、毘沙門天像は空高く飛び去り、太子はその行方を探して諸国を巡りました。そして、この地の山の頂にたなびく瑞雲を見つけ、山に入り探していた毘沙門天像を発見しました。太子はその場所に一宇を設けたとされ、これが石龕寺の始まりと伝えられています。
石龕寺の名前の由来
石龕寺の「龕」とは、仏像などを安置する厨子や壁面の窪みを意味します。現在の本堂から山上約800メートルの場所にある奥の院には、石龕寺の寺号の由来となった石窟があり、ここには毘沙門天が祀られています。この石窟が石龕寺の名前の由来であり、寺の歴史を象徴する場所です。
仁王門と金剛力士像
石龕寺の仁王門に立つ金剛力士像(仁王像)は、鎌倉時代の仏師、慶派の肥後別当定慶(康運)によって仁治3年(1242年)に制作されました。この仏像は現在、重要文化財に指定されています。また、鎌倉時代から室町時代にかけて石龕寺は隆盛を極めました。
南北朝時代の石龕寺
南北朝時代、足利尊氏とその弟直義との争いである観応の擾乱が起こり、尊氏が敗れて一時京都から播磨国に逃れる際、嫡子義詮に仁木頼章、義長兄弟を添えて2000騎を石龕寺に留めました。この際、石龕寺の僧が義詮に丹波栗を献上し、義詮は「都をば 出て落ち栗の 芽もあらば 世に勝ち栗と ならぬものかは」という歌を詠み、その栗を植えました。その後、義詮は天下を取ることとなり、栗は「爪あと栗」または「ててうち栗」と呼ばれるようになりました。
織田信長の丹波攻略と石龕寺の焼失
戦国時代には、織田信長の命を受けた明智光秀による丹波攻略の際、天正7年(1579年)に石龕寺は兵火により全山が焼失し、山門を残すのみとなりました。その後、江戸時代以降に徐々に復興し、宝暦13年(1763年)に現在の奥の院がある地に本堂があったが、焼失し、安永7年(1778年)に現在の場所に移転して再建されました。
奥の院と焼尾神社
奥の院は石龕寺の発祥地であり、かつての本堂があった場所です。現在の本堂から約20分の山道を登った岩屋山中腹の高台に位置し、石窟に毘沙門天が祀られています。また、本堂の西には仁治2年(1241年)に創建された焼尾神社があり、石龕寺の鎮守として弁才天が祀られていましたが、明治時代の神仏分離により市杵島比売命を祀るようになりました。
石龕寺の文化財と見どころ
重要文化財と名所
石龕寺には多くの文化財があり、その中でも金剛力士立像は重要文化財に指定されています。また、県下最大の高さ37メートルの「コウヨウザン」や、聖徳太子が毘沙門天像を洗ったと伝えられる「大槽谷の水」なども見どころです。
紅葉の名所としての石龕寺
石龕寺は紅葉の名所としても知られており、毎年11月第3日曜日には「足利氏ゆかりの石龕寺もみじ祭り」が開催され、多くの参拝客で賑わいます。この祭りでは、護摩供養や武者行列などが行われ、石龕寺の秋の風物詩として定着しています。
境内の施設と歴史的建造物
境内には本堂、薬師堂、焼尾神社、庫裏、客殿、土蔵、弘法大師像、仁王門など、多くの歴史的建造物が点在しています。特に、本堂は安永7年(1778年)に再建され、長い歴史を感じさせる佇まいです。また、奥の院には石龕寺の発祥とされる石窟があり、毘沙門天が祀られています。
まとめ
石龕寺は、兵庫県丹波市に位置する歴史深い高野山真言宗の寺院で、聖徳太子の伝説や足利氏との関わりなど、多くの歴史的エピソードを持っています。また、紅葉の名所としても知られ、秋には多くの参拝客が訪れます。石龕寺を訪れることで、その歴史と文化を感じ、自然の美しさを堪能することができるでしょう。